|
07.聖書講話
「生ける神、応えたもう神」 吉村 孝雄
応えてくださる神 神は応えてくださる神なのかどうか、それは、全能であり、愛と真実の神であると信じるならば、明らかである。神は何でもできるのであるから、当然その愛の本質ゆえに私たちの真実な願いに応えてくださる。神が応えてくださるーというとき、多くは自分の願いや祈りに応えて何らかのよきことをしてくださるーという意味で用いられることが多い。 しかし、神は生きて働く御方であり、その応え方は、目先のことだけでなく、また我々が好むような内容だけでなく、耐えがたいようなことを通して、また長い歳月を通して我々の願いを聞かれることも多い。 応えてくださらない神を思う以前に、私たちはまず自分に与えられている数えきれないほどの神からの恵みに感謝や賛美するという応答をあまりにもしていないのに気づかされる。 日常生活のさまざまの場面で、神がその愛をもって応えてくださっているゆえだと信じ、感謝して受け取る者には、さらによきものをくださる。主の愛のうちにとどまることになるからである。 キリストは言われた。我が愛にとどまれ! (ヨハネ15の9)と。その愛にとどまる者はさらに豊かに実を結ぶようにしてくださる。 人間の不真実な心、それにも応えたもう。現代に生きる私たちの楽園とは、主の平安(平和)である。そこから追放されるということは、現在においても確実に見られる。他者への愛を欠くとき、また傲慢になるとき、あるいは不真実なことを考えたり、行なったりしたとき、主の平安は失われ、霊的な力は失せていく。人間関係の根本である愛が失われ、魂の深い平安は失われる。 しかし、他方、そのような重罪を犯したカインをなお見守る愛のまなざしがあった。(創世記4の15) そして、イエスを三回も強く否定したペテロに対しても、主の愛をもって見つめるキリストのまなざしがあった。 神は、罪を犯し続ける者に対しての何らかの裁きというかたちで応え、そして罪ゆえの苦しみからの悔い改め、神への方向転換を神は待ち望む。そして神に立ち返る者に赦しを与える、このような神の応え方も、はるか現代に至るまで、流れている。 応える神については、主イエスは盲人、ハンセン病、ろうあ者、精神の病、身体の障がい者…等々の人たちに対しても、真実な願いに対して、そしてときには執拗なまでの願いに対して明確に応えられた。 中風の人の友人たちが、病人をイエスのところに持っていけないと知ると、屋根をはいで床をつり下ろすという常識では考えられない行動に出た。 しかし、イエスはそのような行動を責めるのでなく、友人たちの切なるイエスへの信頼にも応えられた。イエスは、中風の人の病をいやし、さらに汝の罪赦されたりーと言われ、魂の病気である罪の赦しをも与えられたのであった。 夜中に戸をたたいて友人のためのパンを求め続けた人に対しても、あきらめないで執拗に願うことによって神が応えられることを教えられた。 そして、そこから、求めよ、そうすれば与えられる。門をたたけ、そうすれば与えられるという約束を示し、そこでどのような人でも、心から神を信頼し求め続けるときには、必ず与えられるものとして、聖霊をあげられた。(ルカ11の5~13) しかし、自分の人生のうちで、神はわずかしか応えてくださらなかったと感じる人もあるだろうし、突然の交通事故や災害などで、以後は耐えがたい苦しみに遭遇している方々において、どうして神はこんなに苦しい目に遭わせるのか、なぜ私たちの助けてくださいという願いに応えてくださらないのかーという深刻な疑問に直面している方にも出会ったことがある。 キリストも、十字架上で、釘で打ちつけられるという想像を絶する苦しみのなかで、わが神、わが神、どうして私を捨てたのか!と叫ばれた。応えてくださらない神というのを、全身全霊をもって思い知らされ、そこからの叫びであっただろう。 しかしその叫びは、死後に与えられた復活ということによって完全な形でよきものが与えられ、応えられる神が示されている。 聖書では、最初から終わりまで一貫して応えてくださる神が主題となっている。人間のいかなる闇や空虚、混乱の中にあっても、そこからの解放を求める人間に対して、「光あれ!」と言ってくださる神が聖書の巻頭に示されている。 イスラエルの民の長い待望、祈りに応えて、神は、救い主キリストを送ってくださった。そして旧約聖書ではわずかの箇所にしかあらわれない復活の真理も、永遠の命を求める人間の痛切な願いに応じて、応えられ、キリストの復活ということで永遠に世界に告げ知らされることになった。 さらに、聖書の最後の書である黙示録には、この世の終わりには、新しい天と地となり、そこにはいっさいの涙、悲しみもない霊的世界となることが預言されている。 これは人間の苦悩、悲しみへの究極的な応えであるから、聖書は全体としてこの世の暗き実態にあって苦しみ訴える人間すべてへの応えが啓示によって私たちに示されているのである。 ---------------------------------------------------- 応えてくださる神ー私に与えられ経験 最初の赴任高校でのこと 私は大学4年の5月末に初めてキリストの福音を一冊の古書を立ち読みして知らされ、それまでのどうしようもない精神的な闇が、雲が晴れるように消えていったこと、それまで全く知らなかった霊的世界を開いてくれたのがキリストの十字架の福音であったので、このような世界があるのだ!と 私の精神が根底から動かされ、その福音を若い世代に何とかして伝えたいという切実な気持ちとなった。 そこから、ほとんどの理学部学生と異なる道ー高校教師になって理科教育を通じて福音を伝えたいという心が何にもまして強くなり、それまでは全く考えもしなかった、高校教員の道に入ることになった。 それは、福音を知ってちょうど1年後だったが、高校の理科、数学教師として赴任して二カ月後に希望者をつのって放課後にてヒルティと聖書の読書会を始めたときに、すぐに10人ほどの生徒たちが、集められた。そしてその最初の高校での4年間の勤務のなかで読書会に参加したり、私が授業で直接教えた人たちのうち、現在も信仰が続いている人は6名ほどいる。 そして、その高校の同僚教員にも二人に信仰がつたわって、その一人には夫君や子供たちにもキリスト者となった。 もう一人は、最初の頃は、私が神やキリストのことを話したら、「神様だなんて!」といって笑って相手にしなかった方だったが、何年も「はこ舟」(「いのちの水」誌の前身)と「生活と読書から」という私の書いた冊子を送っていたら何年も経って「キリスト教信仰を与えられた」との来信あり、あのように無神論者だったのに…と驚かされた。現在はその地域の教会で重要な役割を果しておられるし、その娘さんも宣教師の妻として伝道に加わっておられると聞いている。 それ以後の高校や盲学校、ろう学校、養護学校などにおいても、授業の中でまた、昼休みや放課後などで、聖書の言葉を折々に伝えていた。そうしたわずかな機会であっても、勤務したすべての学校で、神、キリストを信じる児童、生徒たちが起こされていった。また、同僚の一部にもつたわって、いまも県外で、キリスト教の集会を独自に継続されている方もある。 最初の赴任高校で聖書の学びを放課後に始めたとき、私は聖書の研究や知識、ギリシャ語やヘブル語の知識もなく、信仰経験もわずか一年だった。しかしそれでも、神は私の願いに応えて福音を受け継ぐ人を興されたのだった。 福音がつたわるのは、人間的な知識や経験、研究などでなく、神のわざであり、聖なる霊のはたらきなのだと深く知らされたことだった。 これは、私自身の願いに対して神が応えたもうという明確な体験だった。 次の赴任先の工業高校にて その次の工業高校においても、普通の理科教育のための実験室が工業化学科によってかってに占有されていたことが長い年月続いていたこと、それでは高校の普通教育ができないと、学校の責任ある立場の方々に直接に訴えたが、いままでだれが校長になってもできなかった、あなたのような20代の若い者が言っても無理だ、と門前払いーしかしそうしたひどい状況を黙視することができず、たまたま全校教職員と、県の教育委員会の方々との教育研修会があったとき、その実情を強く訴えた。 それによって、道が開かれて普通教育の化学実験室が取り戻され、正常化されて、多くの実験をじっさいに生徒たちに実施することができるようになった。 そうした中で、転勤時は教務課になっていたが、そこでは生徒たちと放課後など個人面談もできないゆえに、とくに希望して図書課に変えてもらい、その活動の一貫として、「生活と読書から」という印刷物を校長や事務職員も含めた全部の教職員に配布していた。しかし、それが、キリスト教関係の書物の紹介が多すぎるから配布を止めるようにとの批判を受けたので、自費で小型の印刷機を購入し、制作し教師たちに贈呈するという方式に変更した。それを読んでいた図書館司書のM教諭が、徳島聖書集会の礼拝に参加するようになり、その後大阪狭山市に転じて家庭での聖書集会をはじめ、そこに加わる人も与えられ、現在もご夫妻で続けられている。 つぎの夜間定時制高校において直面したことは、考えられないほどの状況だった。 同和問題のかかわる暴力で荒廃した学校だった。私は、高校教育でもっとも一般的には、教師が行きたがらない高校ということで、夜間の定時制高校をとくに希望して転勤した。 その高校は、ひどい暴力が教育の現場でなされていることで知られていたのだったが、私が赴任するときには全く知らされていなかった。じっさい、私と同時に教頭に赴任したA教師も、その恐るべき実体はまったく赴任のときには説明されないままで、「だまされた」と言われていた。 赴任早々の授業でまず直面したのが、出欠をとるとき、ある生徒が、いきなり教壇上にあがってきて、自分のベルトを抜きとり、私の首を締めはじめたのだった。ひとしきり脅迫の言葉をつらねてにらみつけてその場は過ぎた。 だがそれはまったくの序の口だった。一般の高校では考えられない状況が毎日のように生じていた。ある時は、生徒(といっても成人している)が一升瓶の酒びんを持ってきて飲み、イスを振り上げて天井の蛍光灯を破壊したりする大騒ぎが生じていた。それを聞きつけて階下の職員室にいた私と教頭がその教室に上がっていって制止しようとしたら、こんどは私たちに向って殴りかかってきた。 私が赴任する前にも、夜まで練習を続けるバレー部の生徒が中庭をおしゃべりしながら帰っていたら、三階からイスを投げつけたとか、全日制の職員室に乗り込んで教師を脅迫したとか、また私が赴任したときも女子生徒を教室のどこかに監禁してわからないというので、夜の広い校舎を探し回ったこともあった。 また、ある時、授業中なのに、さんざん校内放送で、Bという生徒を呼び出しするので、その場から別棟の理科準備室にいた私もあまりひどいのでその放送しているところは職員室に併設されているのに教師はいないのか、と思っていくと、教頭も教師も何人もいる、にもかかわらず、放置してあった。驚いて私が、授業中にこんな授業妨害をしているのになぜ制止しないのかと、教頭やほかの教師たちに抗議しても何も言わない。そのため、私が授業中の放送など止めるようにと当たり前のことを言ったとたん、その生徒がいきなりなぐりかかってきて、授業中に放送したのは、生徒Bが死んでいたら困るからだ、お前は命より授業が大事だというんか、などと考えられないことを言う。…その後、毎日のように、何人もの仲間を引き連れ、私のところに脅迫にきて、授業より命が大事だと全校生徒の前で、土下座して謝れ! と私を取り巻いて脅迫し続ける日々が続いた。そうしたときに、職員室にその生徒が教師全員集まれーという命令の放送がなされ、そこで私をつるしあげ、部屋にあった包丁で私の腹部に突きつけ、教師全員のまえで、謝れーということもなされた。… あまりの異常事態の連続で、夜間定時制の教頭も精神的にも変調をきたし、赴任後わずか三カ月で辞表をだし、さらに全日制から出講していた3人の男性の数学教師たちも、もうやっていかれないと、やはり全日制の保健の女性教師とともに定時制高校への出講を止めてしまったのである。 そのため、ますます生徒たちの一部は授業攪乱を激しくし、教頭を出せ、教頭がいなかったら授業もできないなどとわめいて教員室に来て教師の席に座り、土足を机上にあげ、タバコを吸って平然としているという状況だった。 教育委員会もこうした状況を以前から知らされていたのに何ら手を打とうとしなかった。そのため、今後暴力を受けたら、単独であっても直接に警察に訴えるーという方法をとることを決断した。そしてそれを実行した。そうすると警察は同和地域だとわかると、そのような暴力が横行していたことを調べようとも今後の処置を何も告げることなく帰ってしまった。 その直後、県南地域の部落解放同盟の責任者が、録音機を持って、暴力をふるっていた一部の生徒の親と暴力を主導していた生徒などを伴って学校にきて、学校は全部休校となり、私への糾弾集会がなされることになった。 私が必死でそれまでにどんなことが校内で生じていたのか、それを克明に伝えていこうとしていると、暴力をふるっていた生徒の親がいきなりなぐりかかってきたこともあった。 しかし、そうした私の必死の説明と相手の罵倒などが交錯しつつ、5時間ほども過ぎ去ったとき、突然その部落解放同盟の責任者が、「分った、差別していたのは、吉村先生でなく、校長やほかの教師たちだ!」 と言った。「吉村先生は、わしらの子供たちの悪いことを止めようと努力していた。しかし、ほかの先生方は、動物を相手にするように生徒が何をしようと放置していた。それこそ、差別だ」と言ったのだった。 それ以後、事態は急変し、生徒たちも暴力を止め、授業も正常化していった。 その後、授業が終わったあとその生徒が教頭を連れて私のいる理科準備室にきた。教頭は、私が暴力を振るったといって青ざめた表情で、どうしてそんなことをしたのか、どんなことになるのかわかっているのかーとうろたえていた。私はあのような授業妨害をほかの生徒たちがまじめに受けているのにそのままいつまでも放置できない、 だからもし自分の子供があんなことをしていたら、やはり打ちたたいて止めさせようとする。それと同じであって暴力ではないと説明していたら、突然その生徒が私の顔面を二発力を込めてなぐってきた。危なく目をつぶされそうになり、歯も出血したほどだった。 その後、彼は学校に来なくなった。そして一週間ほど後、彼の勤務先の店長がきて、Mが最近学校に行かなくなって、しょげているので、理由聞いたら「先生をなぐってしまった」と言ったというので、事情を聞くために来校したのだった。それで、半年余りにわたるいろいろのいきさつを詳しく話した。 その後、その生徒Mは、まったく授業妨害を止め、放課後の聖書の学びにも参加しはじめ、小松島市で開かれていた家庭集会にも参加するようになり、以後の生活姿勢は別人のようになって、保護者のとくに母親もその変容ぶりに驚いて感謝をされた。 それから10年以上後に、徳島市の信号待ちで停止していた私の車の後に止まった車がわざわざ降りて、運転席の私のところまで近づき、挨拶に来た。どうしているのと言ったら、地域の子供をワゴン車に乗せて行事に連れていくところーと笑顔で応え、信号が青になったので急いで車に乗ったが、そうした以前なら考えられないような行動に不思議な神の力を感じたのだった。 このようなことは、一般の高校では到底経験できないことだった。 さらに、この夜間高校で5年がすぎたころ、一人の中途失明の女性を大阪の方から紹介され、すぐに点字を修得するようにしていったが、そのために出入りしていた県立の盲人センターの方から、私の住む地域にあった県立の肢体不自由児の施設に、全盲であって肢体不自由の重複障害の児童の教育をボランティアでと依頼された。 わずかの期間に二人の全盲の人を紹介されたので、これは神が盲学校に転じるようにとの示しだと感じて、盲学校に転勤希望した。 それで私が調べてみると何と寄宿舎には、専攻科の学生が入居していて、彼らの視力を調べると、驚いたことに、ほとんどすべての入居学生の視力は正常視力であった。 それなのに、現実に重複障がいの生徒が入学しようとしたら、設備がないなどといって門前払いしているのに、国民の税金で運営されている公立の盲学校が何と、視覚障がい者でないのに、偽って視覚障がい者として扱われ、経費も不正に長年にわたって使われてきていたのが判明した。 それを私が追求していくと、校長、教頭、高等部の理学療法科長、高等部の主事等々、学校の幹部教師たち5名が延々と何時間もかけて、学校で一番離れた幼稚園の校舎に連れていき、私にこうした盲学校の内部事情をもらすな、と圧力をかけ続けたのだった。 そのような姿勢に驚き、それは何としてもそんな圧力に負けて黙ってしまってはいけないと決心し、視力の正常な生徒の出身高校まで出向いてなぜ、盲学校に視力が正常なのに、入学してきたのか、など可能な方法を次々と実行に移していった。 こうした状況は、盲学校と視力検査を担当する眼科医とが結託してこうした法律違反をやってきたのだということになる。それでは、県立学校だから県の監査もごまかしだったことになり、大きな問題となる。 そこであらゆる力を尽くして私の発言を封じ込めようとしたのだった。私はそうした実態を当時発行していた「生活と読書から」という印刷物に書いて盲学校の全部の教員や県外のキリスト者の友人、知人にも送付していた。 そのとき、浜松市の溝口正氏(盲学校教師、今は故人)にも送付していた。その溝口さんが当時友人だった社会党のM代議士に私の印刷物を見せたところ、それを国会の内閣委員会で追求した。 それがもとになって、朝日、毎日などの全国紙でも報道され、盲学校や県の教育委員会で大きな問題となった。そうしたいろいろの経過を経て、私は学校の秘密を洩らしたとのことで、翌年県西部の80㎞ほども離れたところの高校に転勤命令が出された。 もとよりそうしたことは覚悟の上であったが、そのとき予想しないことが生じた。それはかつて私が夜間定時制高校の教員をしていたとき、視覚と下肢の重複障がいの児童を養護学校にて数年間、ボランティアで点字教育を受け持ったことがあったが、その当時の教頭が、ろう学校の校長となって赴任していたのだった。 私のボランティアによってその重複障害児が点字での教育がなされ、学力も向上したことを知っていたその教頭が、すでに教員移動が発表されていた私をろう学校にて受け入れるということになり、急きょ、私は全く考えていなかった聴覚障がい者の教育にかかわることになったのだった。 それによって、私は初めてろう教育という、教育でとくに困難な領域に導かれた。その結果、中途失聴のかつての生徒であった集会員にも手話を教え、土曜日には聴覚障がい児童や中途失聴の人のために、手話と聖書、植物の集会をはじめたが、そこに別の中途失聴の方が加わった。その方は、私が盲学校に転勤するきっかけとなった中途失明の鍼治療師の紹介だった。そしてその中途失聴の方も信仰を与えられ、そのご夫君も信仰者となった。 私がろう学校の小学部に転勤した当時の全国のろう学校では、手話は厳禁であって、全国の50校ほどもあるろう学校で、手話を認めているのは、ほんの一つか二つほどのろう学校であった時代である。 徳島ろう学校も同様で、手話を全面否定し、補聴器で残存聴力を訓練し、声を出させ、口の形で前後関係から言葉を読みとるという口話主義が唯一の教育法だということでなされていた。 ろう教育において手話は不可欠であることを明確に認識したため、手話を短期間で修得する必要があり、県の聴覚障害者センターやキリスト者のろうあ者、手話サークル等々、個人的に可能なところはいろいろとあたって手話を修得して、赴任後、半年足らずで手話を教育で取り入れることにした。 ろう学校の教育方針としては、何十年来ずっと、手話は全面禁止であって、口話、補聴器、発声訓練といった従来からの方法が定着していて、そこに手話を導入するというようなことは、学校全体として到底すぐには決まるようなことでないのは確実だった。 そもそも、ろう学校教師で、当時手話がろうの児童生徒とともに自由にできる教師は、一人しかいなかったのである。 そのような状況を深く知るにつけて、これは、私の単独の判断で、手話を導入するほかはないと確信した。従来からのろう教育方法に加えて指文字、手話を導入することだった。トータルに用いて学習する力、積極性、わかりやすさ、手話とは表情も動作も含むためにより生きたつながりがろう児童生徒と持つことができる。 それゆえに、私が教えたろう児に学習効果があがり、そのうちの一人は、徳島ろう学校では長年入学したことのない、筑波大学付属ろう学校の高等部への入学を希望するようになった。彼女は朝はやく来校して、私のもとで個人的に補習を受けることになった。そして、合格した。さらに、そこを卒業後、設立されて間もない日本で初めての国立の筑波技術短期大学(聴覚、視覚に障がいある人たちの大学、3年制)にも合格した。 また、彼女と同級の生徒は、ろう学校の高等部にいかずに、健常者の高校に進学した。まったく聞こえないろう者なので、英語や一般の授業もみな聞こえない。それでも、一人で、教科書を読み、参考書や問題集で学んで、成績はその高校のクラスでも、トップクラスになったということを、成績簿を見せてもらって驚かされたことだった。 こうした児童生徒たちの学力の向上が明らかとなり、手話は次第に徳島ろう学校で取り入れられるようになって、私が小学部で毎朝の職員朝礼の後、全員の教師に手話を教えることになった。 こうしたさまざまのことーそれらはみな、私が神を信じて思い切って踏み出した一歩を、神が応えてくださったという証しであった。 こうした神からの生ける応答は、ここに記したこと以外に、赴任した先々の学校においていろいろと予想しなかった形で示された。それらは、書物でいくら研究しても決して与えられない体験であり、生きた神のおられることをはっきりと知らされたことだった。 日々の神からの応え 他方、私自身ふりかえって、当時は気がつかなかったがあとから、あれは不適切だった、愛がなかった、祈りが欠けていたーと気づくことも多々ある。 そしてそれが、その後の何らかの問題につながっているーということも学ばされていった。私のそうした愛と祈りの欠如から、つまずかせることになった方々もあるだろう。そうしたこともまた、神からの応答であり、私自身の弱さ、罪ということを深く知らしめるための神の御計画だったと感じる。 キリストの十字架の赦しの福音、そして死さえもうち勝つ復活の信仰は、そうした自分にとっても、日常的にどうしても必要なことであり、神様の愛と真実を実感さけてくださる真理なのである。 応えてくださる神ーそれは特別な出来事でなくとも、日々体験できることである。 そのことだけでも、日々の生活のなかで実感しているとき、ほかのことは何もできていなくとも、生きてはたらき、応えてくださる神の愛を受け取って歩むことが可能となる。 |